わたくしにはもう年頃の娘がいるのだが

当然、小さい頃から愛についても教えてきたつもりだ。

 

動物に向ける愛や

物や思い出に向ける愛

親と子の愛

男女の愛など

あらゆる愛情の在り方について

身をもって示したり

話しをしたりする。

 

これからの社会で生きていく子供たちの世代には

特に恋愛における愛の在り方には

男女だけにとどまらないと話しをしてきた。

時には男性同士や女性同士

男性の心を持って生まれてきた女性やその逆の人たち

その他のあらゆる可能性をもつ人々の愛情の在り方のことなど

柔軟に対応できる心を育てたいと思ったからだ。

 

愛情だけではない。

例えば何かをやらかした人たちを一方的に非難する場合。

ある一面だけを見るのではなく

あらゆる可能性を想像して見たり考えたりできるように話している。

 

極端だけど、

「ママだって明日は犯罪者になるかもしれない。

車を運転していてちょっとした油断で人を怪我させたり、

大切な大切な娘を傷付けられたら何をどうするかもわからない。

罪を犯すことだってあるかもしれない。」

と、自分を例に出して話したりする。

 

人にはそんな可能性がある。

物事には色々な側面がある。

そういう事を知って欲しいと思いそう話す。

 

ある分野に偏見を持ってそれをむき出しにしている人が、

明日にはその分野の人になるかもしれない。

 

あるポイントだけでなく広い視野を持って

あらゆる角度から物事を見ると

世界は全く違うものになる。

 

自分だけの価値観で物事を判断するのではなく、

相手の立場やその他の人の立場に立ったり、

引いてみたり近くで見たり

色々な角度から物事を見れるようになって欲しい。

 

この教育方針で育ててきた結果

個人が自由に多様化を認められている現代を生きる娘の辞書には

今のところ偏見の文字はないようだ。

 

色々な人たちに色々な思いを持って接しているようだが、

「それぞれの考えがあるよね。」

と、達観している様子。

それでいい。

何かが人とは違う人たちに非難や偏見の目を向けてしまえば、

明日は我が身になるかもしれない。

 

これがわたくしの母親たちより上の世代はそうはいかない。

街中で見かける同性のカップルなどには

やはり、特異な目で見る癖があるようだ。

そればかりでなく、

タトゥーにもそうだし、

外国人にもそうだ。

 

その度に言って聞かすのだけれど、

なかなか受け入れ難い様子。

まあ、世代的に仕方がないのかもしれないけど、

この先何があるかもわからない。

母からしたら娘のわたくしがそうなるかもしれないし、

孫が突然そうなるかもしれない。

 

人生には想像もつかない事が起きる事がある。

いつ何がどうなるかなんてわからない。

いろんな可能性を考えたり認めてみたり

それを想像してワクワクしたり。

直面してびっくりしたり。

視野を広く持って毎日を受け入れる。

 

人生には想像もつかない事が起きる事がある。

だから生きてて楽しいのだ。

 

伶花

 

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